はしづめ明子 日本共産党逗子市議会議員
はしづめ明子 日本共産党逗子市議会議員はしづめ明子 日本共産党逗子市議会議員

ライブトーク「震災時、高齢者に何が起きていたか」

 9月21日、山本メディカルセンター主催の第6回ライブトーク、テーマは「震災時、高齢者に何が起きていたか」(気仙沼の在宅医療支援から見えてきたもの)に参加しました。講師は西尾浩美さん(気仙沼巡回療養支援隊・看護師)です。山本真理子医師とは東日本大震災後に現地に入り、共に活動された方と紹介されました。

 最初に山本先生からは、逗子の現状などが話されました。その後、西尾講師から現地で撮影された津波ビデオが映され、気仙沼市の状況について詳しく説明されました。

 気仙沼市は、死者・行方不明者1300人以上、医療機関は44施設が8割被災(6施設は全壊、230床を失い)しながらも、震災後も市立病院が機能したと言うことです。阪神大震災と比較し、阪神は家屋の崩壊で負傷者が圧倒的に多かったが、東日本大震災は津波の溺死が92.4%、負傷者はわずかしないなかった。大きな違いは震災の内容だけでなく、平成7年の阪神大震災、平成12年の介護保険制度導入、高齢化は進み、気仙沼市でも、看護スティーションは1か所、患者の多くは自宅にいて、在宅介護を受ける方も多かったようです。3.11の震災後、行政のデータや書類等が失われ、市の保健師や看護師なとは避難所へ対応で追われていた。そのため誰がどこにいるのか、把握もされていなかった。

 気仙沼巡回療養支援隊(JRS)は、自宅への訪問看護と調査を進め、健康相談チーム(約4000件)と在宅医療チームに分かれ、地域で活動し、行政との連携を強めていったと言うことです。

 震災後、政府の遅れた対応があったことは事実ですが、報道されてない要介護者の実態を報告されしました。事例としてある要介護者は、自宅が葬儀を営んでいたため、市から要請に必死に対応していたところ、十分な介護をすることができずに、褥瘡(じょくそう)、床ずれが深刻な状況となっていたこと、この事例に限らず多発してようです。本来は2時間おきに体位交換をしなければならないわけです。また、電動ベットの場合、電気が来なくなり、ライフラインが寸断されることも想定しておきべきと助言されていました。

 他には、内科疾患が多く、震災によって通院できなくなり、薬もなく、患者の中には飲んでいた薬もわからなくなっていたようです。発熱して肺炎になる人も多く、外科は震災後に寒さから「使い捨てカイロ」の低温火傷の人もいたようです。5月中旬になると新しい患者も増え、在宅療養を支える医療資源不足で、それは震災前からもともとあった問題と指摘されていました。

 避難所では、要介護者の居場所は難しく、被災者同士でありながら、家族は回りの人を気遣い、避難所でなく、車の中で要介護者を避難させていた事例が多く、今後、「福祉避難所」を指定し、ある程度はベットを確保しておく必要性を訴えられていました。

 災害直後の精神的な問題について、被災者の多くが「喪失感」を持ち、日常生活の中で、繰り返し、繰り返し襲ってくるもので、自分の未来が描けない状態が続く人が多くいると言うことです。家族、恋人など失った喪失体験、自分が助かってしまった罪悪感(サパイパーズギルド)、その場合、子どもを失った母親に多く現れていると報告されていました。

 最後に西尾さんから、「私たちができるとこは、普段からネットワークを作り、被災地への思いをもって、声援を続けてほしい」と訴えられていました。

 全国から大震災の被災地へ、半日、一日間、数日間、一週間、一か月間、半年間と無償のボラティアが赴き、様々な活動を行ない、日本に新たな絆をしっかりと築いていたのだと強く感じました。私は父の介護で、自分の対応を恥じていましたし、姉が障害をもっていることから、災害時はどうすればよいのかと考え、常に悩んでいます。災害対策において大切なことは、もっとも弱い、子どもたちや要介護者を中心において、その対応を講じることから、堅実に取り組みを進めることだと考えています。そのことを行政には強く求めていきたいと思っています。また、日本共産党も引続き被災地へのボランティアを募集し、支援していくようになっています。